たとえば、中村うさぎ流の語られ方は、こうだ。
☆・「私たちの不幸は、なんとかして自分以外の自分になりたがる点なのだ。
もし(犬の)チャウチャウが痩せたら幸せになれるのか!?」・・
「銀座のエルメスに並んだ女たちも、パリのエルメスのバーゲンに並んだ女たちも、
全員、エルメスに救いを求めた女たちなのである。
彼女たちは、何から逃れたくて、エルメスにすがるのか。
答えは、「凡庸」だ。・・(中略)・・
私は特別な女になりたい、・・(中略)・・抜きん出た存在でありたい。・・・
しかし、こうして脱「凡庸」を図った女たちが寄ってたかってエルメスに殺到した結果、
エルメスが「凡庸」なブランドになりつつあるのは、皮肉なはなしだなあ。」・・
(「グレースケリー伝説」)
また、こうも言う。
☆・「この女には、罪悪感や自責の念がないのだろうか?
不倫体験のある女なら誰もが堕ちそうになり、必死で踏みとどまる深淵に
自ら身を投げておきながら、
「悪いのは先方だ」と言わんばかりの盲目的な自己憐憫に、
私は反吐が出るほど不快を感じるのだ。」(「日野OL不倫放火殺害事件と私」)
またまた、こうも述べている。
☆・「ところが彼(宮崎勤)は、狂気もなく、ナルシズムもなく、
自己イメージの投影すらなく、淡々と、
『自己不在のフィクション』を語るだけなのだ。」(「幼女連続殺害事件と私」)
そしてさらに、こう語っている。
☆・「自分に対して、極力、客観的でありたい。
そのためには、ナルシズムの防護膜を一枚一枚、剥ぎ取っていかなければならない。・・」
「ただ、興味を惹かれるのは、佐川君の自意識なのだ。・・(中略)・・
不本意な容貌に生まれついてしまったひとりの人間の自意識に、
私は想いを馳せてしまうのである。」(「パリ人肉事件と私」)・・
ここまでの中村うさぎが語る論考で特徴的なキーワードは、
「凡庸」であり、「自己憐憫」であり、「ナルシズム」であり、「自意識」である。
中村うさぎにとってそれは、「脱凡庸」でなければならず、
「反吐が出るほど不快な自己憐憫」であり、
「ナルシズムの見当たらない、自意識の在り様」への執着であるわけだ。
それでは、それについてどのように考察すれば、
カウンセラーとしての捉え方といえるだろうか。・・
果たしてここで、「エルメスに群がる女たち」を社会現象として論じることが相応しいことなのか?・・・
これは「NO!」である。
もちろん、エルメス女性たちは、
ただ憧れのエルメスを手にすることに欲求と目的と満足があり、
別段、「凡庸」から逃れようと意図した行動ではないのである。
まあ百歩ゆずって、脱「凡庸」の意図があったとしても、
エルメス買いによってその目的が叶ったかといえば、
バッグひとつで、「そんなことは無い」わけだ。
ここで問うべきは、むしろ、「脱凡庸」というキーワードを持ち出してきて、
社会現象と自分の買い物依存行動を一緒に洗濯機に入れてしまっている
中村うさぎ流の「解釈」そのものであるはずだ。
それは、カウンセリングの概念でみれば拡散、あるいは逸脱ということになる。
ここではあくまでも、中村うさぎは、
「私自身は、脱凡庸に異常なまでに執着している」と述べるにとどめなければならない。
そうすれば、彼女の買い物依存症のキーワードとして、
「脱凡庸」があることが、あらためてハッキリしてくるのだ。
そのつぎのキーワードとして、「自己憐憫」はどうか。・・
日野OLの言い訳も、
精神科のグループセラピーで語られる自己陶酔と被害者意識にも、
太宰治の甘ったれ人生にも、
そんな自己憐憫の者たちに、我慢ならないと噛みつく中村うさぎである。
自称ナルシーを公言してはばからない彼女の「自己愛」と、
その一方で憎悪する「自己憐憫」とのあいだには、何があるのだろうか。
「可哀そうな私」という思いが、
卑怯で甘ったれな自己愛(ナルシズム)の「自己憐憫」とするならば、
中村うさぎの「自己愛」は何と言えようか。
美しく言えば、「孤高のナルシズム」。
茶化して言えば、「糊口のナルシズム」。なんてね。(おこられるぞ。)
まっ、ナルシズムについては、今日のところはここまでにとどめておきましょうか。
それで次は、宮崎勤と佐川一政君のうさぎ流の捉え方に注目してみようとおもいます。
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